グーグルマップが示す場所は、民家も疎らな田園地帯の一角。
今回訪れた廃墟は、マニアの間で「散り際医院」と呼ばれている廃医院である。
風前の灯火

車を停め歩いて行くと、母屋と増築した平屋が目に入る。
散り際医院の名に相応しい朽ち具合だ。

元々2階建ての母屋は大きく崩れ、平屋同然の姿となっている。

母屋の玄関を見てみると、古い廃医院で見掛けるプレートが残っている。
平屋を増築するまでは、ここで診療を行っていたようだ。

奥にX線撮影装置のような物が見えているが、とても足を踏み入れられるような状態ではない。

平屋には薬品や医療器具がそのまま残っているが、母屋同様危険な状態である。
泣く泣く探索は諦めることに。
佐々木医家頌徳碑

すぐ傍に、頌徳碑※1が建てられている。佐々木医院に関連するものである。

句読点の振り直し等、当サイトで碑文の表記を整えている。
佐々木医家は、明治三十二年当時無医地域であった板木下地区有志の切なる要請に応えて、三次町よりこの地に転居開業せられ、南来三代百年に近い長年月地域医療に尽瘁された。
初代三代都先生は、豪放磊落身を以て医の仁術を実踐せられ、子弟教育を重んじて多くの人材を世に送られ、又地域青年に日本外史を講ずる等社会風教を先導された。
二代喬先生は、厳父の志を継ぎ、高雅仁慈温容を以て人に接し仁術を進められ、傍ら三和町教育委員会委員及び委員長に歴任して町教育の進展に貢献し、又喜楽園が創立されるや園医に就任奉仕され信望特に篤かったが、既に老境に達せられた。
三代道昭先生は、医道を究められ嘱望する所多大であったが、早世せられ哀情の極みである。この間歴代一貫して、温く慈愛をこめて脈をお取りくださった諸先生に対する地域住民の感謝と敬慕の念は、まことに筆舌に尽くし難い。
よってここに地域住民は相議り、佐々木医家の功徳を永遠に顕彰し感謝の至情を捧げるため、この頌徳碑を建立する。
要約すると、佐々木医家は当時医者が居なかった地域住民の要請で、現在地に医院を開業し、長年に亘って地域医療を担ってきた。
初代の先生は豪快に医術を実践し、人材育成や地域の教育に尽力した。二代目の先生は厳しい父の志を継ぎ、思いやりをもって医術を実践し、教育委員長を歴任するなど町教育に貢献した。三代目の先生は多くの住民に慕われていたが、若くして亡くなってしまった。
歴代の先生方に対する感謝の気持ちは、言葉や文章では表せないほど素晴らしいものである。地域住民は佐々木医家の功績を永遠に称えるため、感謝の意を込めて頌徳碑を建立した、という内容である。
何の変哲もない廃医院には、温かく素敵な物語が存在した。たとえ建物が倒壊しても、佐々木医家の功績が忘れ去られることは無いだろう。
廃墟評価
廃墟退廃美 | B |
到達難易度 | C |
廃墟残留物 | B |
崩壊危険度 | S |
廃墟化年数 | B |
廃墟評価の詳細はこちら。
脚注
※1^ 偉業や功績を称えるために建立された碑。