埼玉県毛呂山町に位置する新しき村。村の一角には、貴重な都電の車両が保存されている。
現地を訪れ、初めて存在を知ることとなった新しき村。まずはその歴史を辿っていく。
自他共生の理想郷
村の門にあたる2本のポールには「この門に入るものは自己と他人の生命を尊重しなければならない」と書かれている。何も知らずに訪れた者は、身構えてしまうだろう。
新しき村は大正7年、作家の武者小路実篤とその同志によって、宮崎県木城町に開村された村落共同体である。
昭和13年、ダムの建設によって新しき村の農地が水没することが決まる。昭和14年、一部を残して本拠地を毛呂山町に移し、残りは「日向新しき村」として存続することとなった。
現在は一般財団法人となり、新しき村で生活する「村内会員」は3名、会費を払い村の外から支援する「村外会員」は160名ほど。
この村は、ただ単に生活するためのものではなく「新しき村の精神」に基づいた世界を築くことを目的とし、開村されたものである。
新しき村の精神は、以下の通りである。
一、全世界の人間が天命を全うし各個人の内にすむ自我を完全に生長させることを理想とする
一、その為に自己を生かす為に他人の自我を害してはいけない
一、その為に自己を正しく生かすようにする自分の快楽幸福自由の為に他人の天命と正しき要求を害してはいけない
一、全世界の人間が我等と同一の精神をもち同一の生活方法をとることで全世界の人間が同じく義務を果せ自由を楽しみ正しく生きられ天命(個性を含む)を全うする道を歩くように心がける
一、かくの如き生活をしようとするものかくの如き生活の可能を信じ全世の人が実行することを祈るもの又は切に望むものそれは新しき村の会員である我等の兄弟姉妹である
一、されば我等は国と国との争い階級との争いをせずに正しき生活にすべての人が入ることによって入ろうとすることによってそれらの人が本当に協力することによって我等の欲する世界が来ることを信じ又その為に骨折るものである
新しき村は、平成30年で開村100周年を迎えた。新しき村の精神という土台があったからこそ、100年も村は続いたのだろう。
新しき村の開村当初は、村外からの支援が必要不可欠であった。戦後に始めた養鶏が成功し、村外からの支援無しで生活出来るようになると、若者の入村が相次ぎ、村の人口は60人を超えた。
仲よし幼稚園
先程の案内図を頼りに歩いてきた。都電の車両に関する案内板が設置されている。
この電車は昭和29年に製造され、都内で運行していました。廃車後、昭和43年に村外会員の高橋ひさ子さんから寄贈されて、新しき村仲よし幼稚園の園舎として、又新しい園舎が建てられてからは遊戯や図書館、母の会等に十六年間活用されてきました。そして、昭和59年に幼稚園が閉園した後は次第に破損が目立ち始めて平成8年に卒園生父母の呼びかけで寄付が集められ修理が行われました。
しかし時の経過とともに忘れ去られた存在になりつつあった時、新しき村創立百周年記念行事のひとつとして、都電六一九一号修復グループの市川裕太さんのご協力とご指導で、村外会員有志、毛呂山町と有志により仲よし幼稚園に来た当初の姿を取り戻すことができました。この七〇〇〇形都電車両は現在ほとんど残っていません。
貴重な文化財として長く大切に保存活動してゆきたいと思っています。
今後共皆さまのご協力をお願いいたします。
小さな車両を、幼稚園の園舎として使用していたというから驚きだ。
初めて目にした都電の車両。美しさのあまり、一瞬で心を奪われた。
とにかくエモい、それ以外の言葉が思い浮かばず、語彙力を失ってしまった。
車両内には、修復作業の様子を撮影した写真が展示されている。
手作業でありながら、ガタつきも無く綺麗に塗装されている。
土手を下りて反対側から眺めてみる。窓枠の塗装が剥がれかけている。綺麗な状態を維持し続けるのは、非常に難しいことだ。
休憩用のベンチだろうか。都電の雰囲気に良く合っているが、座ると壊れてしまいそうだ。
心地良い虫の鳴き声、暖かな日差し、草木を撫でていく風。長閑な時間が流れ、日常生活で抱えるストレスが浄化されていく。
行先標を見上げると「銀座」の文字。華々しい都心を走っていた車両は、新しき村という第2の地で、静かに隠居生活を送っている。
廃墟評価
廃墟退廃美 | A |
到達難易度 | C |
廃墟残留物 | – |
崩壊危険度 | – |
廃墟化年数 | B |
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